ハードボイルドだど。

5月か。NHKFMゴンチチを聴きながら、玉川上水さんぽ。いや、犬を連れた人やジョギングする人、夫婦づれなど、たくさん歩いている。汗ばむ陽気となり、Tシャツ姿の人も。

壁の時計が止まったままだ。5分ぐらい進んでいたが、電池を入れ替えるとなると、ちょっとやっかいである。壁の前のものをどかさねばならない。

バッハを聴いている。ロス・マクドナルド『別れの顔』(菊池光訳/ハヤカワ・ミステリ文庫)を一日で読む。まあ、暇だからね。リュウ・アーチャーもので、金の函を探してほしいという簡単な依頼が、こんがらがった糸のように複雑な人間関係、不幸な遠い過去、人間の暗部を照らし出していく。嘘で塗り固められた人生が、アーチャーの行く手を阻む。ぞっとするほど、冷酷なエゴが、悲劇を助長するのだ。

そんなやりきれない筋運びの突っ張った紐を緩めて、読者の心を安らげるのが、随所にはさまる美しい文章での描写だ。これは、登場人物の一人、医師の魅力的な妻で、アーチャーがベッドを共にする女性と話しながら歩くシーン。

「私の手を引いて街灯の明かりを越え、町角から離れて、海の方へ下り始めた。点在する街燈のまわりに、しぶきが、光を発する雲のようにうかんでいる。緑色の公有地と海辺の小道に人影は全くなかった。」

巻末に掲載された菊池光の手によるものであろう「w・ゴールドマンの『別れの顔』の書評」という紹介文がいい。『別れの顔』の書評が、1969年の「ニューヨーク・タイムズ・ブック・レヴュー」のフロントを飾った。もっとも権威ある書評ページで、ミステリが扱われること自体が「画期的な出来事」だった。すぐさま同著はベストセラーとなり、前作『さむけ』の映画化権が売れたこととともに、ロス・マクの名が一躍知られるようになるのだ。

抜粋ではあるが、このゴールドマンによる書評が本当にすばらしい。金の函はわりあい簡単に見つかり、そして「死体(デッド・コープス)」が現われるところから「この小説の本当の内容が始まる」。ここで「死体」を「デッド・コープス」とするのは、「ロス・マクドナルドの小説では単に死者(デシーズド)と言うのでは足りないからだ。登場人物の誰もかれもが死んでいるか、死につつあるからである」(カッコ内はルビ)と、ゴールドマンは評す。ゴ氏は映画『明日に向かって撃て』や『遠すぎた橋』の脚本家でもある。ロス・マクの小説の魅力を「アーチャーに他者の生活に入ってゆき、出てゆかせる絶望的に高まってゆく強制力である」とする。的確な指摘であるとともに、言葉が立っている。

1960年代におけるロス・マクの活躍は、ハメットやチャンドラーによるハードボイルド派の探偵小説の復権であり、1970年代以降のネオ・ハードボイルドの出現をおぜん立てした。私が好きなロバート・B・パーカーもその一人。名無しのオプを創出したブロンジーニもそうで、『誘拐』解説に高見浩が、アメリカ探偵小説でのハードボイルドの蘇りについて、こう書く。

ベトナム戦争の挫折を契機に、目を外から内に向けはじめたアメリカ人たちは、したたかな信条を胸底に秘めて一人暗い路地をゆく孤独な男=<私立探偵>の姿に、たしかな手応えと忘れていたロマンを見出したのだろう」