出席番号1番の男の諦念

6月に入り、雨の月曜日である。近くの学校が解禁となり、ぞろぞろと学生たちが登校。少しずつ緊張がほどけ始める。5月半ばぐらいからか、しきりにカッコウが鳴く。

先週、サンデーへ本選び。電車に乗るのも二週間ぶり。帰り、高円寺。有志で「ちんとんしゃん」へ。営業再開を応援しようと、落語好き4人衆が集まる。ビニールでカウンター前を覆い、空気清浄機の稼働、制限人数より増えたら客を断る体制で、徳子さんが迎えてくれる。

カウンターを常連が占め、あんまり行かない私以外はみな知り合いらしい。一番端の男性の名が「あいうら(相浦)」さん。つまりア行の最初の三文字が姓の頭に順番に並ぶ。名前自体はそんなに奇手ではないが、音韻上、これは珍しい。というのも、小中高と、まちがいなく五十音順の出席番号が1番となるはずで、事実そうだったという。くしくも、その隣りの客の姓の頭が「い」、次が「う」、一つ飛んで、私が「あ」とあいう(え)おが並んだ。これで「え」がいればなあ。一つ飛んだのが「か」さんで、「え」がいて、ぼくの横に回れば「あいうえおか」までが揃ったのに。こんなこと面白がるって、変かなあ。

あいうらさん」に、出席番号がずっと一番で苦労されたでしょうと問う。というのも、学年始め、まだ学級の体制が整っていない場合、担任教師がいろんなこと(たとえば日直)を出席番号一番に頼むことが多いからだ。「とりあえず、じゃあ、あいはら」とビールみたいな存在になる。それで「苦労されたでしょう」という問いになったのだが、「悪いこともあったが、いいこともあった」とおっしゃる。つまり、「どうせしなくちゃいけないことが、後々で回るより、まず自分がする。その覚悟が最初からある、というのは訓練になった」と言う。これはいい答えでしたねえ。あいはらさんの人物の大きさが、この一点で分かる。えらいなあ。人生の真実に触れたようで、思わずうなってしまった。

あいかわらず、むちゃくちゃ本を読んでおります。大佛次郎『風船』再読も終了。いっぱいラインを引いた。これは立派な作品でした。戦後、荒廃した人間のニヒリズムとエゴイズムを相手に、なんとか人間らしく生きようと模索する初老の男が主人公。映画では森雅之。不具だが汚されず明るい娘が、影の中で光る。映画では芦川いづみで、芦川は「陽のあたる坂道」でも、片足の悪い少女に扮した。戦争前の静かな東京、敗戦後の荒れた東京の都市論、文明論もあり、そこはちょっと吉田健一の小説みたい。映画がみたくなって、ビデオ店(とは今言わないか)へ行くが「風船」はなかった。