鈴木志郎康さん逝去

何日か前、映画のこととかいろいろここに書いたが、保存に失敗し消えてしまった。それでふてくされてしばらく、開けてみる気もしなかった。今朝は涼しい。「朝日」朝刊に鈴木志郎康さんの訃報が掲載され(顔写真なし12行)。8日、87歳だった。準備もなしに書くが、私の上京を後押しした重要な人物だった。もちろん現代詩の世界でも革新の大御所。

「鳩よ!」という雑誌に現代詩マンガを投稿し、毎号書くことになったのは関西在住時代。「飾粽」という同人雑誌を準備中の志郎康さんから手紙がきて、マンガを描いてくれと言われ跳び上って承諾した。上京する準備(住むところなど偵察)として、1989年だったのか、準備段階として東京に来て、住む場所ほかあれこれ志郎康さんに相談した。ぼくは32歳。非常に親身になってアドバイスしてくれた。「谷中あたりに住みたい」と言うと、「いや、あのへんは意外に高いよ」とか。志郎康さんのお宅へ向かう途中、小沢昭一さんの家を見つけたことも思い出す。

その夜はコンクリのモダン建築(高名な建築家の設計)の鈴木邸に泊めてもらった。朝、マリ夫人が作ってくれたオニオンスライスがあまりにおいしくて、ほとんど初めてバクバク食べたことを思い出す。前の晩スライスして水にさらし、冷蔵庫で一晩寝かせて水気を飛ばす、ということではなかったか。志郎康さんの詩でおなじみの「草多」さんにもこの時挨拶した。今回、葬儀の喪主となっておられる。いま振り返っても、私の上京は無謀、無策、無学、無力と平均点以下の惨憺たるありさまで、どうしようもなかったな。最初からの白旗で、しかもなんだか汚れていた。

ぶじ上京してからも、「飾粽」の編集作業には必ず参加した。知人のいない東京での、私のよりどころであったわけだ。埼玉県戸田市からスクーターで通った。清水哲男・昶兄弟はじめ、高名な詩人をまのあたりにし、緊張し、隅っこで縮こまっていた。阿部岩夫さんも同人のなかにいて、それが「おべんとうの時間」写真家の阿部了さんの父上だと気づいたのは最近のことである。

詩の業績についてはこれから追悼文などが出るだろう。「現代詩手帖」も追悼特集号を準備しているはずだ。「飾粽」解散後、お近づきもなくなったが、ずっと恩義に感じていた。一度、あらためてお礼をと思いつつ、今日にいたってしまった。感謝とともにご冥福をお祈りします。今日は志郎康さんの詩を読もう。他者の論の引用が少なく、すべて自前の頭脳からしぼりだし滑走する散文も好きだった。