音楽が慰めとなるだろうか

2021 年静かな年明け。晴天。家族でいちばん早く起きて、水道の蛇口をひねったら(押す式だが)ちょろちょろと水が。水道管が一部凍ったのであろう。ネコ二匹が足元でみゃあみゃあ催促をし、カリカリの餌とチャウチュール(無敵の大好物)を。ネコには新年も何もないだろう。うらやましい気もする。

昨年大晦日は身内何人かと電話のやりとり。風雲急を告げる展開で、あわただしい一年になりそう。まとまったお金が必要となるが、貯蓄預金額はつねにマイナス。蔵書で値がつくものなら、全体の半分の量でも処分して何とかお金を作らなくてはならない。本が出るなど、書く仕事で、何とかがんばって乗り切っていきたいが、これだけは注文がないと。滞って長年となる仕事を仕上げるしかないか。来年の元旦は、どんなところに立ち、どんな気持ちでいるだろうか。

あれ、重い始まりになったなあ。そんなつもりはなかったのだが。

吉田健一が「金沢」で書いている。

「或る瞬間に生きることが喜びというものではないだろうか。それが我々が生きている時間に加えられてその時間が又ただ流れ始める」

「薄ら寒い思いをさせる」記憶が、その流れる時間をいっとき妨げても、また時間は確実に流れる。「つまりは記憶は形骸だけである」と。その「記憶」で現在今ある自分がさいなまれることは、結局はおろかな生き方であろう。

年賀状は午前中に届いており、77枚が私宛て。30枚ほど、お礼をこめて返信の年賀状を書き投函。1枚60数円でつながっている縁がたくさんあるが、これは大事だぞと思う。結局、事前に買った100枚を使い切る。

夜、ウィーンフィルの2021年新春コンサート(無観客)ライブを、ずっとソファで毛布をかぶって聞いている。音楽が慰めとなるだろうか。