殴られるなら殴られる

キース・ジャレットSurvivor's Suite」を聞きながら。こんな音楽だっけ。尺八みたいな音(キース・ジャレット)、とポール・モチアンのパーカッション、そうかベースはチャーリー・ヘイデンか、なんだか瞑想的というかお経みたいな始まり。とにかく数百枚はあるジャズのCD、ほとんど聞かずに眠っているもの多し。

今年はコロナ禍でもともとそうだったのが引きこもりが甚だしくなり、生涯のレコードとなるぐらい、よく本を読んだ。ほとんど読みっぱなしだ。吉田健一をよく読んだ年であり、『長いお別れ』の再読、『ブライヅヘッドふたたび』の完読など、きわめつけの名作長編も。アップダイクの『ケンタウルス』はもたもたして、3カ月ぐらいかかって読了。今年いちばん感心したのは、新潮文庫谷崎潤一郎をほとんど手がけた細江光の訳注。これは、よくある辞書の引きうつしではなく、深く踏み込んで解読、批評ともなっている。何かの賞に値する仕事。どこかで詳しく褒めたい。

朝日の三谷幸喜の連載で、井上順のディナー・ショーで起きたハプニング(学生時代の三谷が起こした)の話がすこぶるおもしろく切り抜く。これは人に話す鉄板ネタ、になりそう。

さいきんのプロ野球での狂騒的応援、コンサートで総立ちになり憑かれたように同じ動作を(歌う)する人たち、さまざまな祭りなど、マスで興奮する姿を見るのがどんどんつらく、忌避したくなる。個で生きたい。人の励ましや助力は受けながら。

鈴木志郎康「私は和さない」(『詩集 日々涙滴』河出書房新社

歌っている人たちがいる

目の前だ

しがみつくように坐っている人たちが

身をゆすって

歌い終ると

歌えという

私は歌わない

和さない

殴られるなら

殴られる